209号「海外での研究・教育」

★本コンテンツは,日本社会心理学会会報 第209号に掲載されたものです.

エディトリアル

縄田 健悟

今回の広報委員責任編集コンテンツのテーマは「海外での研究・教育」である。実は私自身は,留学経験や在外研究経験が無く,英語さえかなり苦手である。海外での研究と教育を行っている・行ってきた人に多大な尊敬の念と少しばかりのコンプレックスを抱きながら日々を過ごしている。狭い日本に閉じこもっていてはいかん!とまでは言わないが,やはりもう少し世界に目を向けた研究や教育を行うことは必要だろう。

現在のところ,海外での留学先や就職先としては,欧米が選ばれることが多い。心理学領域における「海外留学・在外研究のすゝめ」的な案内も多くは欧米の大学が紹介されることがほとんどである。それは欧米の大学が世界の研究を牽引していることが多いからであるが,海外での研究・教育の形にはもっと多様な形があるはずである。非欧米の大学も視野にいれることで,欧米一辺倒・英語一辺倒ではない海外での研究・教育のあり方が見えてくるだろう。

というわけで,このたびの編集コンテンツでは,海外での研究・教育として,特に非欧米圏での研究・教育生活を取り上げたい。本記事では,韓国での大学教員を経験された藤井勉氏に,韓国での研究と教育に関してご紹介をいただく。藤井氏は,もともと韓国にゆかりのある方というわけではない。学習院大学で博士後期課程を経て助教をなさった後,韓国語もまだ分からない中,韓国にある誠信女子大学校に日本語教員として就職されたそうである。日本の大学を卒業した後に,非欧米圏での大学教員として就職されるケースは,私の周りではこれまであまり聞いたことが無く,極めて示唆に富むものである。ぜひお話を伺いたいとご執筆をお願いしたところ,ご快諾いただいた。

私がわざわざ指摘するまでもないが,研究の世界でもグローバル化が進んでいる。しかし,英語で学会発表をすれば,英語で論文を書けば,グローバルな研究者かと言うと,それは一面的な見方だろう。本コンテンツが,特に非欧米圏での大学教員・研究者としての就職を選択肢の一つとして,考える一つのきっかけになれば幸いである。

(なわた けんご・九州大学)

■韓国での3年半の教育・研究生活

藤井さん

藤井 勉

韓国で大学教員に?

もともと,「海外で働く」ということは私の人生の予定にはありませんでした。私は語学にもさして自信がなく,何より飛行機が苦手なのです。そんな私が韓国で3年半,これまで教育・研究にあたってきたのには,様々な偶然があります。

まず,韓国への赴任が決まった際,私は学習院大学で助教をしていました。2年を過ぎ,3年間の任期満了後のことを意識するようになったものの,どれだけ公募に応募しても通りません。困り果てていたときに,以前,国際比較研究のプロジェクトに参加した際に知り合った先生を通じて,韓国の大学で日本語日本文学科の教員の公募が出ていることを知りました。

私は学士・修士・博士課程ともに「心理学」に関わってきました。日本語教育の知識もなく,韓国語も分かりません。子どもがいる今なら選択肢には入れられなかったでしょうが,当時はとにかく必死だったのでしょう。気づけば書類を揃えて応募していたのです。

その後,なんと「面接」の案内が来ました。国際学会には何度か参加したことこそあれ,恥ずかしながら一人で海外に行くのが初めてだった私は,面接どころか「そもそもきちんと行って帰って来られるのか?」と,「はじめてのおつかい」に行く子を見守る両親のような不安を抱きつつ(行くのは私なのですが),何とか1泊2日で面接を受けて帰ってきました。

結果は「採用」。嬉しさ半分,いや2割くらいでしょうか,残りは不安の中で慌てて準備をし,2012年9月に着任しました。初めは「分からないことしかなかった」韓国での生活も,3年以上過ごす中で多少はマシになりました。韓国語は未だにあまり話せず,たまに授業で使うと「先生が韓国語喋ったぞ!」という驚きの目で見られるほどです。そんな私ですが,多くの人の心理的・物理的援助に支えられて,何とかやってこられました。

韓国での教育活動と学生の様子

韓国の学生は,日本の学生と比べて感情表出がとにかくストレートで,良くも悪くも「素直」という表現がしっくりきます。着任して最初の授業で学生に何と言われたか,今もはっきり覚えています。できるだけ平易な日本語を使うよう心がけて一生懸命スライドを作り,授業をどのように進めるかについて説明をしていると「先生,分かりません」との声。そりゃそうか,と思いつつ,「どこが分からない?」と尋ねると「全部」。そして「韓国語で説明してください」と追い討ち。冷や汗が伝いました。

ただ,今になって思えば,それも当然です。当時の私は今より早口でしたし,難しい表現ばかりを使って説明していました。当時はそれが最大限のパフォーマンスだったのですが,今になって思えばひどいものでした。年を経るごとに少しずつ慣れていき,今ではこういったクレームはなくなりましたし,学生との距離も近くなっていきました。1年生のときは私の言っていることがほとんど理解できず,不安そうに授業を受けていた学生も,今や私の寒い冗談も笑ってくれるほどに上達し,多くの学生は休み時間にも積極的に話しかけてくれるようになりました。「やりがい」とはこういうことなのだろうと強く思いました。

こちらでは日本語に関する授業のみに従事していましたが,日本人である自分がいかに日本語を知らないかを思い知らされました。「実務日本語」という授業で敬語を徹底的に扱ったのですが,たとえば,「行く」という動詞について,同じ謙譲表現でも「伺う」と「参る」の2つがあるのはなぜか,という質問にヒヤリとしたり(動作の受け手が敬意を示す対象かどうかが判断基準です)。その意味では,韓国に来て日本語教育に従事することで,自分の日本語も多少は洗練されたのではないかと思っています。

私は心理学を勉強してきている以上,少しでもそれを授業で活かしたいと考えていました。そこで,会話の授業ではドクタースミス問題や,バスケットボールのパス回し中にゴリラが横切るビデオなども取り上げ,私たちが気づかないうちに偏見を持っている可能性,他の情報に気を取られて,重要な情報を見落とす可能性などに基づいて授業を行ったりしました。そうした少し変わった授業スタイルも,学生は気に入ってくれたようです。

ところで,韓国の学生はとにかく勉強します。なぜでしょうか?(勉強しない方がおかしいという声も聞こえてきそうですが。)日本の大学は,就職活動時に成績はそこまで重視されないように思いますが,韓国では成績は最低限の条件とも言えます。一定以上のGPAを持っていることが,就職試験の受験資格の一つとなっていることもあるようです。そのため,中間・期末テスト時はただならぬ緊張感,重たい雰囲気に覆われています。どれだけ難しいテストにしたつもりでも得点分布が大きく右に偏ってしまうような猛勉強っぷりなので,1点の差で評価が分かれたりすることもしばしばです。出題ミスや採点ミスがないよう,私も毎回緊張しています。

加えて,学生は過酷な就職活動を乗り越えるために,大学在学中にいろいろな「スペック(spec)」を身につけなければなりません。たとえば語学関係の資格,TOEICの高スコア,ボランティア経験,インターン経験,留学経験,何らかの受賞経験など。日本の場合,入学した後はいかに「リアルを充実させるか」に重きを置いている人も多いでしょう(少なくとも私はそうしたいと思っていました)。それはそれで楽しいのですが,韓国で同じことをやっていると置いていかれます。かといって,学生たちは全く遊ばないわけでもありません。話を聞いてみると,記憶を無くすほど飲みすぎたり,夜遅くまでカラオケで遊んでいたり,海外旅行に出かけたりと,けっこう楽しんでいるようです。そういう意味では,韓国の大学生はメリハリがついた生活をしているとも言えます。

そして,特に興味深いと思ったのが,年齢や関係性をとても重視するところです。日本では浪人や留学などの理由で同じ学年に年上の人がいても,多くの場合は気にせず友達言葉で接することが多いと思います。ところが,韓国は1歳でも年が違えば,同じ学年でも「お兄さん,お姉さん」になり,基本的に敬語を使って話します。年上の方が「偉い」のです。

また,自分にとって重要とみなした他者(学科の先輩や教員など)への振る舞いは特に礼儀正しいと感じます。もちろん,見えないところで何を話しているか私には分かりませんが,少なくとも対面時の挨拶は丁寧ですし,メールの文章もとても丁寧な書体です。このことはとても印象的でした。

韓国での研究活動

韓国は,OECD加盟国の中でもっとも自殺率が高く,深刻な社会問題になっています。私は臨床心理士ではありませんし,いわゆる臨床的な介入をすることは不可能です。ただし,近年の社会心理学的な研究知見から,新たなアプローチの可能性を見出しました。キーワードは「潜在的自尊心」です。

これまで,自己報告で測定する,いわば「顕在的」自尊心の研究は数多く行われ,自尊心が高いことは精神的な健康と結びつく,という自尊心神話が長らく君臨していました。しかし近年は,顕在的自尊心が高くても,間接的な方法で測定する「潜在的」自尊心が低い場合,内集団ひいきをしやすい,抑うつ傾向が高いといった,あまり望ましくないパターンが見られることが示されてきました。また,個人の中で顕在的自尊心と潜在的自尊心の乖離が大きいほど,自殺念慮が高いといった研究もみられています。そうなると,ひたすら「(顕在的)自尊心を高めよう!」というトレーニングや介入は,人によっては何ら効果をもたらさない可能性すら出てきます。

自殺という深刻な問題に,社会心理学的なアプローチが生かせないかと思い立ち,数年前に国際学会で知り合った韓国の共同研究者とともに,顕在的・潜在的自尊心の研究にあたっています。今のところ,顕在的・潜在的自尊心のズレが大きく,しかも潜在的自尊心の方が高い状態にあると,抑うつや孤独感が高いとか,主観的幸福感が低いといった結果が得られています。抑うつや孤独感は自殺念慮とも一定の関連がある変数なので,これらの変数に対する潜在的自尊心の影響を検討することは,自殺の問題に対しても貢献しうると考えます。

もちろん,仮に自殺念慮に潜在的自尊心が一定の影響を及ぼすことが分かっても,どうすれば潜在的自尊心が向上(変容)するのか,という難しい問題が待っています。しかし,この研究を進めることで,自殺は極端な例だとしても,人の心理的健康に少しでも寄与できればと思っています。

これからの私と韓国

実は,この原稿を書いている今の私は,本年2月29日をもって誠信女子大学校を退職した身です。右も左も分からないまま必死で過ごしてきた3年半でしたが,この時間と経験は私にとってかけがえのないものになりました。先に少し触れましたが,外国で,外国人として暮らすということは様々な困難が伴います。住居の契約,携帯電話やインターネットの契約,日々の買い物など,日本にいれば簡単に解決できることも,文化や言葉の違いによって,初めは分からないことだらけです。学科の先生方や助手さんにもたくさん助けていただきましたし,韓国で知り合った方々(日本人・韓国人を問わず)にも,いくらお礼をしても足りないほどのお力添えをいただきました。3年半,この地で生活してこられたのは,こうした方々のおかげです。

私と韓国との関係はここで終わりにするつもりはなく,韓国の共同研究者とともに,これからも研究を続けていきたいと思いますし,帰国後も折に触れて韓国を訪れ,将来的には日韓の国際交流事業などにも携わりたいと考えています。

(ふじい つとむ・(元)誠信女子大学校(韓国))