地域活動に参加する?それとも参加しない?
以下のような場面を想像してみよう。
ある金曜日のこと、お父さん、お母さん、お兄ちゃんとあなたが食卓を囲んで会話している。
「そういえば明日は地域の清掃活動があるんだけど、私は用事があって行けないのよ。お父さん、行ってくれないかしら。」
「僕は今仕事が忙しくて疲れているんだよ。休みくらい休みたいよ。うちくらい休んでもいいじゃないか。」
「だめよ、ご近所さんに言われちゃうわ。悪い評判立つと、いろいろと面倒なのよ。」
「じゃあ、僕が行くよ!きれいなおねーさんたちにほめてもらえるもん!」
さあ、もしあなたがこの家族の末っ子だったら、誰の意見に賛同するだろうか。お母さんのように、悪い評判を心配するだろうか?それとも、お父さんのように自分の休みを優先させるだろうか?あるいは、お兄ちゃんの言う通りに、綺麗なお姉さんに(あるいはイケメンに)褒められるべく、掃除に協力するだろうか?
さて、今度は現実のあなたの生活範囲を、ぐるりと見渡してみよう。公民館でのバザーであったり、火の用心の見回りであったり、それぞれの地域のそれぞれの地域活動に、さまざまな人が参加している。あなたの地域では、どのような人が参加しているだろうか?地域活動に参加している人は多いだろうか、少ないだろうか?
そもそも人は、どうして地域活動に参加するのか。もちろん、地域が好きで、「より良くしたいから」と思って参加する人も多いだろう。一方で、さきほどのお母さんのように「悪い評判が心配なので、地域活動に参加する」という人もいる。あるいは、「地域活動に参加すると人に褒められるのがやめられない」という人もいるだろう。地域活動に参加する理由は、さまざまである。本研究は、地域活動に参加する理由と、「付き合う人を自由に選べるかどうか」という地域の特性が深く関わっていることを示した研究である。
関係流動性と悪い評判・良い評判
この研究のキーワードのひとつは、「付き合う人を自由に選べる度合い」を表す、関係流動性というアイデアである。関係流動性の高い状況では、人々は好きな人と自由に付き合い、嫌いな人と縁を切ることができる。一方で、関係流動性の低い状況では、人々は付き合う人を選べず、何らかの理由で仲間となった人々と付き合いを長く継続することになる。例えば、大学では、付き合う友人は自由に選べるし、どのようなサークルに入るのも自由である。テニスサークルに入りたいにしても、大抵いくつか違うサークルがあって、気が合わない人がいたり、方針が違うなと思ったりすれば、別のサークルに移ることができる。このように、所属する集団や関係を自由に選べる状況が「関係流動性の高い状況」である。一方で、高校では、クラスが決まっていて、滅多なことがなければ数年間、同じメンバーと顔を合わせ続けることになる。テニス部はひとつだけなので、テニスがやりたいと思えば、ちょっと気が合わない人がいたとしても、その部活に所属し続けなければならない。このような所属する集団や関係が決まっている状況が、関係流動性の低い状況である。
重要なこととして、今までの研究から、関係流動性の高低によって、良い評判と悪い評判を重視する度合いが違うことが知られている。まず、関係流動性の高い状況を考えてみよう。関係流動性の高い状況とは、つまり新しい人と出会うチャンスが多い状況だ。このような状況では、良い評判を獲得すればするほど、より多くの相手と関係を作ることができる。例えば、「こいつ、駅のホームから落ちた人を救出した、すごくいいやつなんだよ」という良い噂が立てば、その人はどのサークルを選んだとしても歓迎されるだろうし、友達もたくさん作ることができるだろうし、なんなら恋人も作れるだろう。要するにモテモテの状態である。そして、そのようなモテモテのメリットは、「関係が選べる」という状況でこそ最大限享受できる(婚約者という決まった相手がいるのにモテたって仕方ないのだ)。このため、関係流動性の高い状況では良い評判を獲得することがより大事、といえるだろう。反対に、関係流動性の低い状況を考えてみよう。関係流動性が低い状況とは、集団や関係が排他的で閉じられており、新たに関係を結ぶことが困難な状況だ。このため、既存の関係からのけ者にされることは、生活を営む上で致命的である。「こいつ、犬を捨てていた悪いやつなんだよ」という悪い噂が立てば、その噂の回る範囲(クラスなりサークルなり)では居場所がなくなってしまう。このとき、噂を知らない違う集団に移れればいいのだが、もしその集団に留まり続けるしかないのであれば、針のむしろ状況にじっと耐えるしかない。このように考えると、関係流動性の低い状況では、悪い評判が立つことを避けることがより重要なのである。
さて、同じことは地域活動にも当てはまる。地域活動に参加することは、「自発的な参加」という体裁をとるとはいえ、いわばその地域のルールだ。したがって、ルールを守って地域活動に参加する人は「良い人」として良い評判を獲得できる一方で、地域活動に参加しない人は「悪い人」として悪い評判が立ってしまうことが予測できる。同じ「地域活動に参加する」という行動であっても、関係流動性が高い地域では、より「良い評判を獲得すること」と地域活動への参加が結びついている一方で、関係流動性が低い地域では、より「悪い評判を避けること」と地域活動への参加が結びついているに違いない。
この予測を確かめるために、本研究では東京都の12地域で調査を行い、地域活動(地域美化活動、防災活動、お祭りの実行委員、バザー出店)に参加する頻度と、地域の関係流動性、そして「地域活動に参加する(参加しない)と、他者からの評判がどの程度上がる(下がる)と思うか」という評判との関連を検討している。この結果、関係流動性が低い地域では、「地域活動に参加しないと評判が悪くなる」と予測する人ほど地域活動により多く参加する、という結果が得られた。つまり、お母さんのように「悪い評判が立つことが心配で地域活動に参加する」という人は、関係流動性の低い地域で多く見られたことになる。このような評判予測と地域活動への参加との関連は、関係流動性の高い地域では見られなかった。一方で、「地域活動に参加すると評判が上がる」と思うかどうかは、その地域の関係流動性がどうであるかに関わらず地域活動への参加を促す、という結果であった。
評判予測と実際のズレ〜多元的無知
さて、ここから、一歩進んだちょっと難しい話をする。冒頭の家族の話に戻ろう。
翌日、清掃活動にお兄ちゃんと参加したあなたは、お兄ちゃんと綺麗なお姉さんのこんな会話を耳にする。
「あら、近所のおそうじに参加するなんて偉いわね。」
「お母さんが、お掃除しないとウチの評判悪くなっちゃうから、って。お手伝いしにきました。えへへ。」
「あらあら、そんなことないのにねぇ。お掃除くらいサボったって、全然問題ないわよ。ここはいいわよ、公園で遊んできたら?」
「わーい。じゃあ行ってきまーす。」
はてさて、どういうことだろう。著者らは、人々が悪い評判を気にするあまり、過剰に「他者から悪い評価をつけられるかもしれない」と思い込んでいる可能性を指摘している。実際、本研究では、「他の人が地域活動に参加していなくても自分はあまり気にしないが、もし自分が地域活動に参加しなければ、他の人は自分の評判を下げるだろう」と判断していた。つまり、予測と実際の間にはズレが生じていたのである。
本研究では、人々が皆「地域活動に参加するのは地域のルールで皆が守っていることだから、参加しないと評判が低下してしまう」と思い込み合っていることが、「皆が地域活動に参加する」という現実を呼び、結果として「思い込み」の維持に一役買っている可能性を論じている。このような思い込みが思い込みを呼ぶ循環構造は、例えば、裸の王様のお話によく似ている。裸の王様でも、皆が「皆、透明の服が見えているに違いない」と思い込みあっていることが、「『王様は裸である』と言えない」現実を呼び、結果として、ちょっとおかしな状況の現状維持につながる。このような、皆が「自分はそんな意見はどうかと思うけれど、皆は賛成しているようだ」と思い込んで、思っていることと実際の状況にズレが生じてしまうことを多元的無知という。著者らは、「地域活動への参加」についても、このような多元的無知が起こっている可能性を指摘している。
地域活動への参加を促す社会の要因
以上が、論文のメインの報告である。「地域活動への参加」という、ともすれば個人のモチベーションに帰属しがちな現象を、関係流動性や多元的無知という社会構造的要因から説明しようと試みている点は、「ザ・社会心理学」的研究であり、本研究の面白いところといえるだろう。著者らの今後の研究の展開に期待したい。
第一著者・岩谷 舟真(いわたに しゅうま)氏へのメール・インタビュー