「応用研究」の悩み
個人的には、「社会心理学的知見の社会応用」という言説には、かなり慎重な立場であり、論文等のオープンアクセス化にも慎重な立場である。それは、知識の利用という局面に於いて、研究的真実を追究する研究者とそれ以外の人とでは、動機もリテラシーも大きく異なるからであり、何でも完全にオープンにして、判断をゆだねることのネガティブな側面も少なくないと考えるからである。しかし、他方で、社会的場面においては、本来研究に基づいて方針が決定されるべきところを、一部の人の経験知や他の地域の成功例の導入というかたちで方針が決定されていることがある。その最たるものが政策策定の領域であろう。ただ、教育政策については多くの研究が実施されているなど領域による違いがあることも確かであるし、例えば私の所属と密接に関係するアートやデザインの領域では、「今」の消費者のニーズ調査に振り回されていては仕事にならず、常に自分の経験や直観を信じて誰も見たことのない未来を予測しなければならないことも確かである。
しかしそれでも、一部の政策領域については、ある制度が実装された場合に、その制度は社会の中でどのように機能するのか、社会にどのようなインパクトを与えるのかを検証することが望ましいという機運が全世界的に高まっており、それは行動政策学(behavioral public policy)と呼ばれる。本研究は、日本ではあまり普及していない、裁判員裁判のためのフォーカスグループがどのように機能するかを検証するということを目的とした(ただし、厳密には、このフォーカスグループは、「政策」ではない)。
このフォーカスグループとは、マーケティング等にも使われる手法であり、ターゲットとなる人の興味や関心を把握するためのものである。特に裁判の文脈では、法律の専門家として、市民の感覚と乖離してしまう法曹が、市民のものの見方や説得に対する反応を把握することを目的に使われる。しかし、日本ではあまり使われておらず、研究も少ないことが現状である。そこで、本研究では裁判員役として大学生,弁護人役として法科大学院生の協力を得て、このフォーカスグループの効果の検証を行った。その結果、フォーカスグループを踏まえることによって、弁論が変わり、それによって、それを読んだ裁判員役の学生にも変化が認められることがわかった。
「応用研究」を社会心理学がどう評価するか
実はこれを研究し、社会心理学研究に掲載してもらうことについてはいくつもの論点がある。学術誌の目的は、特に「応用」や「評価」を謳っていないかぎり、既存の社会心理学の枠組みの一部に影響する学術的な新たな知見を紹介することにある。ある応用の有効性調査の結果を学術誌が掲載を認めるのかというのが一つの論点である(現在でも、全く異なるこの2つがあまり意識されず混在しているところはある)。この点は、今後問題になるかも知れないが、こちらとしても有効性評価の論文であると考えながらも、ある程度学術的知見という観点からも述べるように工夫をした。
第2の論点は、では有効性調査の論文はどのようなフォーマットで書かれるべきかという点である。本論文は投稿時、現在のように、いわゆる社会心理学研究的なフォーマットではなかったが、審査者のアドバイスを受けて一部の内容をばっさりと切って社会心理学的なフォーマットに揃えるようにした。これは、読者にとってその方が理解しやすいのだろうと著者自身も思ったからであるが、もっと工夫のしようがあったのかは今でも迷っている。
第3は、この研究は本当は「応用研究」でもないことである。応用研究とは,社会心理学にある知見を社会実装する際に、その効果を検証するかたちで行われる。この場合、知見は既存の「社会心理学」にフィードバックされ、その理論の補正に用いられる。しかし、本研究のようなモードⅡ型の研究では、評価方法として社会心理学的方法を借りているだけで、基盤となる社会心理学的理論がない。社会でなんとなく使われている制度の有効性を評価することも社会心理学なのか、あるいはたとえば、「血液型占い」のように、それに社会心理学的説明が付けられたときに初めて社会心理学になるのかという判断も悩ましい。とはいえ、これが悩ましく見えるのは近年学範が固くなっていることのネガティブな側面に過ぎず、ジャーナル共同体の評価メカニズムが方法論や既存理論への貢献に重きを置きがちなので過剰に学範が狭まっているとはいえ、歴史的に見て社会心理学はもっと社会現象全般を対象としていたのだから、狭く考える必要はないという理解もあり得るだろう。
広報委員会から荒川歩氏へのQ&A