第53回公開シンポジウム

日本社会心理学会2009年度第53回公開シンポジウム
「移動の人生・故郷の力―日本の戦後を等身大に生きる」

会期

2009年7月18日(土)午後1時30分 – 4時

会場

アイーナ(岩手県民情報交流センター)803会議室、JR盛岡駅西口から徒歩4分

趣旨

戦後日本は地方から人々を労働力として吸引して成長を続けた。東北地方、と くに青森県や岩手県は、集団就職、出稼ぎ、そして人口流出と、送り出しの代表地域で ある。故郷を離れた人びとにも、残った人びとにもそれぞれの人生がある。その多様さ を近代化への「誇りある」対応として論じる。なお話題参加者として調査対象者の方々 も登壇する。

企画

作道信介(弘前大学)

司会

辻本昌弘(東北大学)

案内のチラシ

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シンポジスト

移動の人生・故郷の力(作道信介)

開催報告と印象記

企画者 作道信介(弘前大学)

 第53回公開シンポジウムは、7月18日(土)、盛岡駅前のアイーナの803会議室にて、13時30分から開催されました。定員150名の会議室がほとんど埋まっておりました。

 テーマは「近代化の社会心理学」、全体のタイトルは「移動の人生・故郷の力:日本の戦後を等身大に生きる」と名付けました。近代化の特徴は、たとえば産業化、市場経済、個人化など多数あげることができます。このシンポジウムでは変数というより私たちがいまそのなかにいる状況としてとらえています。近代化は、仮説検証というよりは、複雑な事例からその特徴を明らかにするタイプの社会変動だと考えたからです。本シンポジウムでは、日本の戦後近という特定の時代、東北地方とくに青森県という特定の地域を舞台にした出稼ぎ・集団就職など集合的な移動を、近代化への対応の事例としてとりあげました。

 司会は辻本昌弘さん(東北大学)にお願いしました。私がとくに興味深かった点を簡単に紹介します。

 最初の登壇者は、下北半島の集団就職者の追跡調査を続けている細江達郎さん(岩手県立大学)です。細江さんは「人生のストーカー」を自称しています。調査者と同年輩の対象者がともに年齢を重ねていくにしたがって関係性が変化していくこと、生涯にわたる発達が時代背景や地域性に大きく左右されることを指摘されました。最後に、集団就職後、行方不明になった対象者の追跡をこれからの仕事とすると言われ、長期追跡調査のすごみを感じました。ふたりのゲストの話題提供は、実際の調査対象となってきた方々だけに発言に力がありました。集団就職で東京に出て理髪店を経営する田中輝夫さんと地元に残って故郷を守ってきた脇江忠廣さんです。とくに田中さんは「生まれた故郷の外に出てしまうのはもったいない。失ったものも多い」と述懐されたのでした。次は、私(作道)が「ホールドとしての出稼ぎ」と題して、これまで社会問題としてとりあげられてきた出稼ぎが人口流出を抑制し、故郷を維持する潜在的機能を果たしていたことを、津軽地方の村落調査から示しました。最後の登壇者は、社会学から限界集落を論じる山下祐介さん(弘前大学)でした。マクロな青森県の人口減少や、家族の構成員の減少事例を示し、限界集落の実態を示しました。「故郷は、今いる世代から、次の世代へと継承できるか」と問いました。私はチラシに「人生が移動であるとすれば、故郷とは移動がこしらえた実存のフィクションだ」と書きました。その実存を支える故郷が危機に瀕している現状が示されたわけです。

 本シンポジウムは、近代化を人間の営みを抽象的な空間ではなく、特定の、具体的な歴史的-地域的文脈に位置づけて論じること、そのなかでの人生をたんねんに追うことが複雑な近代化のダイナミズムを理解することにつながる、ということを示すことができた、と自負しております。

 最後に、このたびの盛会は盛岡在住の学会員以外の方々のご尽力にも支えられております。お礼をもうしあげます。

 ※当日の配付資料をこちらに掲載しました。

印象記1

織田信男(岩手大学)

 今回のシンポジウムは、日本の陸地で46年ぶりに皆既日食が見られる4日前に開催された。専門家によると、皆既日食をサングラスや下敷きを通して見ると網膜を痛めるので、専用のメガネが必要とのこと。一方、今年は、3D対応の映画が増え、専用のメガネをかけてみると、映像が立体的に見えるので迫力があり、感動が大きくなるという。

 今回は、演劇の素養が深く、ご自身も役者の経験をもつ作道信介先生の企画である。どんなモチーフが含まれているのか、保護用のメガネと娯楽用のメガネを用意して、安藤会長のご挨拶の言葉を借用すれば、”NHKの大河ドラマのような壮大な人生物語のご発表”を拝聴させていただいた。

 辻本氏の静謐な語り口による紹介により、第一発表者として細江達郎先生の聴衆へのサービス精神溢れるご発表が始まった。まず、A4の両面印刷の資料が4枚、豊富な写真入りのパワポの数々、NHKの映像、お二人の調査対象者の登場と2次元から3次元への資料呈示を驚きながらも楽しませていただく。内容は、日本の近代化において社会が個人に及ぼしてきた影響を時代史という横軸にとり、個人が社会に及ぼしてきた影響を個人の生涯発達史という縦軸にとり交差させ、「地域史」という層を複数取り上げて、職業的社会化についての総合的研究の一端をご紹介されたと思われる。簡潔に述べると、高度成長で安価な労働力を必要とする社会が、職業選択をはじめとした下北半島の人々の人生全般に及ぼす過酷な影響を紹介する一方、個人が高度成長の礎として社会に貢献し、自身の人生を価値あるものとして捉えながら生きていく「人生物語」。そして、過酷な社会状況のなかでも人間が自分の人生を価値あるものとして意味づける一つのキィーワードとして、「人と人とのつながり」の重要性をご指摘いただいたのではないか。

 細江先生によると、この「つながり」は犯罪の抑止要因の一つとしても機能するらしい。きっと、この言葉の重みは、昭和38年(1963)から始まり、今年で46年も続く膨大な調査データに由来するのであろう。この点ですでに、保護用のメガネに大きな亀裂が生じる。また、”人生のストーカー”と調査対象者から称される研究者を私はほかに知らない。この名称の由来は、調査対象者の位置関係が、「調査される」受け身的な関係から、「人生の意味を教える」能動的な関係に成長したからこそ生まれたのではなかろうか。そして、この成長は、聞き取りとり役を対象者から見て年上である研究者から年下である学生に移行することで可能となる仕掛けだけでなく、調査対象者のNHKの番組への出演、今回のシンポジウムでの話題提供者としての参加など、研究者と調査対象者の多種多様な協働により成立しているようだ。

 しかも、これらの協働者は、「つながり」を活用して、ふるさとから離れた人を呼び戻そうとする運動の一翼まで担っていくのである。これまた、当初、研究者と調査対象者の関係は、個人レベルの目標の共有から社会レベルの目標の共有へと発展するだけでなく、これら二つの目標の実現に向けて協働していく実践者の関係にまで発展しているように思えるのである。厳しい社会に生きる市井の人々に光を当て、人々の誇りを守る運動。この運動が実を結ぶには、横の「つながり」が必要であり、そして、この「つながり」は次世代にも着実に継承されなければならないと訴えているかのようだ。

 この「つながり」の重要性は、作道信介先生の「〈ホールド〉としての出稼ぎ」のご発表、山下祐介先生の「限界集落をめぐる世代・家族・ふるさと」のご発表にも共通に強調された点ではなかろうか。そして、三人のご発表に共通していた「つながり」には、「絆」や「結い」という美しい言葉だけでは表わしきれない、等身大の人々が抱いているエネルギーの大きさや不自由さまでもが含まれる印象を受けた。

 シンポジウム会場へ入場する際、氏名だけでなく住所までも記帳した人は、すでに「つながってしまった」のである。

 次回、三人の先生方のご発表を拝聴する際には、保護用のメガネを複数枚用意していこうと思った次第である。

印象記2;来し方を振り返り、行く末を想う、等身大の人間がそこにいた

山崎剛信(岩手県立大学)

 公開シンポジウムの会場は、学生から高齢の方まで非常に幅広い層から120名以上の方々が参加され、活気に包まれた。印象的だったのは、シンポジウムで発表される研究の対象者となった方々も大勢会場を訪れていたことである。

 シンポジウムは司会が辻本昌弘先生で行われ、細江達郎先生が「団塊の世代の人生経歴を辿って」と題して、作道信介先生が「〈ホールド〉としての出稼ぎ」、山下祐介先生が「限界集落をめぐる世代・家族・ふるさと」と題して発表された。

 細江先生はこれまで、昭和23年生まれの青森県下北半島出身者を中学時代以来継続的に調査しその人生を追ってきた。この世代は団塊の世代と呼ばれ、日本の戦後復興と経済成長を担った世代である。ご発表には、この長期追跡調査に協力されてきた調査対象者からお二人の方も話題提供者として登壇した。当事者の人生の語りを交えながら日本の戦後史を振り返り、これからの展望についても思いを巡らすことができた。

 作道先生のご発表では、「出稼ぎ王国」青森の出稼ぎ者の調査から、これまで一般に思われていた「食えないから出ていく」という、「出稼ぎ=必要悪」言説だけでは説明できない「出稼ぎ」の意味を考えさせられることになった。「出稼ぎ」によって人口流出が防がれていた面があるという「ホールド」仮説についても発表された。最近の非正規労働と「出稼ぎ」との対比から、「働くことの意味」「豊かな働き方」とは何かについても考えさせられた。

 山下先生のご発表は、昨今地方で問題となっている「集落の限界化・消滅」についてであった。山下先生は青森県にある限界集落を事例に挙げながら、「近代化とは何か」について話された。「ある場所に生き、次の世代を育て、時間を超えてさらに下の世代とつながっていく」という、「人生」「家族」「地域」の意味が急速に喪失していく様を目の当たりにしながら、今後私たちが何をすべきかについて多くの聴衆とともに考えることとなった。

 今回のシンポジウムは、会場を埋め尽くす聴衆と、発表する研究者、さらには調査対象者までもが、場と時間を共有し、人生と故郷の意味について共に想いを巡らすという、極めて稀有で濃密な時間となった。この時間の豊かさをお伝えすることが、この文章を書くことを依頼された私の最大の任務であろう。

 今回のシンポジウムでは、まさに等身大の人間が登場した。なにを当たり前のことをと言われるだろうか。こう書くのは、今回のシンポジウムが私に、社会心理学徒としての極めて深い内省をもたらしたからである。その内省とは、近頃私がいかに「等身大ではない」人間を語ることが多くなってきたかである。シンポジウムではなにか細かいことを抽き出そうとすることもなく、したがって大事なことを捨て去ることもなく、自己を消して物事を考えようとするような無理もなく、皆が普段の姿でありのままに登場し参加した。

 シンポジウムには故郷を離れて活躍した人が登場した。離れた地で、地域に貢献し、地位を得、人間関係を広げ、子どもを育てた。一方、生まれた地に残り、生まれ故郷の発展に尽力した人も登場した。中には、故郷と出稼ぎの地を往復しながら、日本の発展と地域の発展を支えた人も登場した。それぞれがそれぞれの仕方で、故郷を想い、家族を想い、自らの人生を想って生きてきた。その中では、挫折したり、困難に押しつぶされそうになったり、さまざまな不運や不幸に見舞われたり、他者との多様な葛藤にからめとられたりしながら生きている時もあった。胸躍り、歓喜する、至福の体験もあった。そういうありのままの等身大の人間が本当によく見えるシンポジウムだった。

 お気づきの通り、ひとつ前の段落はすべて「調査対象者」のことであり、「研究者」のことであり、「聴衆」のことであり、「あなた」のことなのである。一人ひとりの等身大の人間の姿である。そこには固有名詞を伴いながら、同時に豊かに生きようとする人間の普遍的な姿があるのである。

 細江先生は、普通の人の真摯で誠実な姿勢を伝える意味は大きいと語り、それはしばしば人を感動させると述べられた。普通の人の生きる姿を伝えることが、社会心理学の仕事でなくてなんであろう。それを若い人に伝えることが社会心理学教育でなくてなんであろう。そういうことまで考えさせられるシンポジウムであった。